聖書の中には数多くの神様の人々が登場します。聖書はこの神様の人々の素晴らしかった点だけでなく、罪や恥や短所も隠さず記録します。彼らの様々な恥部の中には争いに関する多くの記録があります。例えば、人類最初の夫婦であるアダムとエバは、神様の御前で罪を犯した後に互いに責任転嫁します。夫婦間の争いです。ヤコブは兄エサウの長子権と祝福権を嘘で奪い取り、これに怒ったエサウはヤコブを殺そうとします。兄弟間の争いです。イエス様の弟子だったペテロとヨハネは、嫉妬からイエス様の御前で感情的な喧嘩をします。弟子たちの間の争いです。宣教師として任命されて福音を伝えていたパウロとバルナバは、マルコを宣教旅行に参加させるかどうかの問題によって争います。宣教師間の争いです。ほかにもたくさんの争いと葛藤が聖書に登場します。神様は絶えず争う御自分の民の姿をご覧になって辛かったはずです。神様は人間の争いの原因と解決方法に関しても、詳しく教えて下さいました。
「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう」(箴言10:12)。「高ぶりがあると、ただ争いが生じるだけ。知恵は勧告を聞く者とともにある」(箴言13:10)。「激しやすい者は口論を引き起こし、怒りを遅くする者は争い事を鎮める」(箴言15:18)。「ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる」(箴言16:28)。「愚かな者の唇は争い事に入って行き、その口はむち打つ者を呼び寄せる」(箴言18:6)。「薪がなければ火が消えるように、陰口をたたく者がいなければ争いはやむ」(箴言26:20)。「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし、主に拠り頼む人は豊かにされる」(箴言28:25)。「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった」(ルカ22:24)。「これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです」(Ⅰテモテ6:5)。「愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい」(Ⅱテモテ2:23)。
神様は私たちの憎しみ、高ぶり、短気、ねじれた心、愚かさ、陰口、情欲、嫉妬、中傷、そして真理であるイエス様を利用して利得を得ようとする心が争いの原因だと教えます。この争いの原因を逆にすれば、争いの解決策になります。憎しみを愛に、高慢を謙遜に、短気を柔和に、欲を抑え、嫉妬は相手を認めることに、陰口は称賛に、無知な議論は理性的な討論に、そして神様を利用しようとする心は神様に拠り頼む心に変えるなら、私たちは争うことなく愛し合えると神様は教えます。
イエス様を信じる人々は、だれかを最後まで憎むことはできません。争ったからといって、互いに縁を切って過ごすことはできません。なぜでしょうか。イエス様を信じる人の中には聖霊様がおられ、その聖霊様が「互いに愛し合いなさい」「互いに一致しなさい」と語られるからです。
もし今ま争って辛い時間を過ごしている方々がおられるなら、神様が教えてくださった争いの原因の中で自分にあるものはないか点検してみてください。重要なことは、相手にある原因ではなく、自分にある原因を見つけることです。自分の中にある争いの原因を見つけたら、素早くそれを変えましょう。憎しみなら、それを愛に変えましょう。そうすれば、心に平安が訪れます。そうすれば、関係の中に天国が臨みます。そうすれば、再び神様と教会に仕えることができます。御言葉によって勝利する恵みがありますよう祝福します。愛します。