イエス様の時代、サマリア人は混血民族になってしまったため、ユダヤ人から軽蔑されていました。ユダヤ人は彼らと一緒に食事をしたり、会話したりすることを嫌いました。ある日、イエス様は北にあるガリラヤに行くため、このサマリアを通られました。イエス様はサマリアのスカルという町で立ち止まり、旅に疲れてヤコブの井戸の傍らに座っておられました。そのとき、一人のサマリア人の女が水を汲みに来ました。そこで、イエス様はこの女の人と会話し、彼女に礼拝について教えられます。
イエス様の教えに驚いたサマリアの女は、イエス様にこう尋ねます。「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネの福音書4:20)。簡単に言うと、エルサレム神殿でささげる礼拝だけが正しいのですかという質問です。イスラエルはソロモン王の後、北イスラエルと南ユダに分裂しました。北イスラエルにいるサマリア人は、南ユダにあるエルサレム神殿に行けなくなったため、自分たちの地域にあるゲリジム山に神殿を建てて礼拝しました。そのため、ユダヤ人とサマリア人の間には、礼拝場所の正統性についての葛藤がありました。サマリアの女はこの問題の答えを聞くために質問したのです。
感謝なことに、イエス様は礼拝場所だけではなく、礼拝の対象と礼拝の本質についても説明してくださいました。イエス様はこう答えられます。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」(ヨハネの福音書4:21~24)。
この御言葉から礼拝に関する教えを受けることができます。1つ目に、礼拝はエルサレムだけでなく、どこででもささげることができます。2つ目に、礼拝は聖書の神様、つまり唯一であり、創造主である神様を信じて、その神様にささげるものです。3つ目に、礼拝は御霊と真理によってささげるものです。4つ目に、神様はこのような礼拝をささげる礼拝者を求めておられます。
この礼拝の教えの前提になっていることは何でしょうか。それは神様を信じる人は神様に礼拝しなければならないということです。神様を信じる人にとって礼拝は選択ではなく必須です。礼拝について教える前に、イエス様はサマリアの女にこう語られました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネの福音書4:14)。私たちのたましいの渇きを永遠に解決してくれるいのちの水、つまり、いのちの御言葉を聞き、分かち合い、学べるところが礼拝です。教会でささげる礼拝です。創造主である神様を信じていますか。イエス様と出会い、イエス様を信じるようになりましたか。神様に礼拝しましょう。神様は御霊と真理によって礼拝する礼拝者として、あなたを求めておられます。愛します。