自ら十字架を十字架を背負ったイエス様

イエス様は自分を殺そうするユダヤ人たちにご自分を明け渡しました。ユダヤ人たちはイエス様を捕らえた後、ユダヤ地域を治めていたローマ総督のところに連れて行き、イエス様を死刑にするよう求めます。尋問を終えたローマ総督ピラトは、イエス様に罪がないことが分かりましたが、イエス様を十字架につけるように叫ぶユダヤ人たちに勝てず、罪のないイエス様に十字架刑を宣言してしまいます。

十字架刑は、当時罪人に下された刑罰の中で最も厳しい刑でした。十字架刑が確定すると、罪人はむちで激しく打たれます。十字架につけられる前に、そのむち打ちによって死ぬ人もたくさんいました。その後、罪人は血まみれになった体で自分がつけられる十字架を背負って死刑場に向かいます。十字架は自分の背よりも大きく重いため、十字架を負うこと自体が苦痛でした。十字架を背負って死刑場につくと、服を全部ぬがされて裸になり、背負ってきた十字架の上に横たわります。休むためではありません。手と足が十字架にくぎで固定されるためです。そして、十字架は地上に立てられます。この十字架が立てられる瞬間が、一番苦しい瞬間です。罪人の全身が手足に打たれた3本のくぎにぶらさがる瞬間だからです。そして、十字架刑はこのような激しい肉体的苦痛を感じながらゆっくりと死んでいくのです。しかも、それで終わりではありません。十字架刑にされた罪人が受ける別の苦痛は、人から受ける侮辱、非難、あざけりです。「あの人は 殺人を犯してああやって死んでいくんだって。」「本当に?死んで当たり前だ。」「そんな罪を犯すとは。もっと苦しんで死ねばいい。」このような非難を彼らは全身で受けました。通り過ぎる人が石を投げたりもしました。

聖書には、イエス様は罪もないのに、自ら十字架を負われたと書かれています。イエス様は傷のない完全な神の子であったため、罪がありませんでした。イエス様は無罪でした。しかし、イエス様は十字架を負われました。罪はありませんでしたが、イエス様は罪人のように黙々と死刑宣告を受け入れ、自分とはまったく関係のない十字架を負われました。 旧約聖書のイザヤ書53章7節には、このイエス様の姿を預言しています。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

では、イエス様はなぜ自分とはまったく関係のない十字架を負われたのでしょうか。イエス様は、なぜ死に向かって黙々と進まれたのでしょうか。それは、私たちを愛されたからです。イエス様が負われた十字架は、実は私たちが負わなければならない十字架でした。イエス様は私たちを救うために、私たちの十字架をご自分の十字架として受け入れ、十字架で死なれたのです。そのため、今私たちは自分の罪のための十字架を負う必要がありません。イエス様の十字架によって、私たちの罪が綺麗に赦されたからです。

イエス様のように他の人のために自分のいのちを犠牲にすることは難しいかもしれません。でも、小さな十字架なら負えます。例えば、人間関係の中で葛藤が起こった時、「すみません」「私のせいです」「私の責任です」と言って、十字架を負うことはできます。そうすれば、職場や家庭で起こる葛藤は消え去り、人間関係が平和になります。人間関係が平和になれば、関係の中で天国を経験できるようになります。イエス様の十字架を信じてください。平和と天国があなたに訪れるでしょう。

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