平安を与えて下さるイエス様

ユダヤ教の宗教指導者たちは、イエス様の登場が気に入りませんでした。その理由は、イエス様が病人の病気をなおし、死人を生き返らせるなどの多くの奇跡を行い、多くの人々がイエス様に従いはじめたからです。多くの人がイエス様をメシヤ、つまり救い主だと考え始めると、危機感を感じた宗教指導者たちはイエス様を殺そうとしました。

当時のイスラエルはローマの支配下にあり、ユダヤの宗教指導者にはイエス様を直接死刑する権利はありませんでした。そのため、彼らはローマから派遣されたポンテオ・ピラトという総督のところに連れて行って裁判を受けさせます。ローマの総督にはイエス様に罪がないことが分かりましたが、イエスを殺せという宗教指導者やユダヤ人の群衆の要求に押され、イエス様に死刑を宣告します。こうして、イエス様は十字架の上で死を迎えます。

この時、弟子たちはイエス様のように自分たちも捕らえられ、殴られたり殺されたりするかもしれないと考えて逃げてしまいました。恥や失望、挫折が彼らの心にありました。しかし、彼らが最も耐えがたかったのは恐怖です。彼らが恐怖に震えている時、よみがえられたイエス様が彼らのところに現れ、このように言われました。「平安があなたがたにあるように。」死から生き返られたイエス様が、逃げてしまった弟子たちのところ来られ、恐怖の中にいる彼らに平安を与えて下さいました。

イエス様はご自分を捨てて逃げた弟子たちを叱りませんでした。「なぜ逃げたのですか。」「私が十字架で死ぬとき、あなたがたはどこにいましたか。」と責めてもおかしくはありませんが、イエス様が弟子たちに話しかけて最初のことばは、「あなたがたに平安がありますように」という祝福でした。

国語辞典では「平安」をこのように説明しています。「やすらかで変わったことのないこと。無事平穏なこと。」平安というのは秩序がある状態、正常な状態、変化がない状態、つまり揺れることなく安定している状態を意味します。たましいと心が静まる状態を平安と呼びます。風も波もなく静まっている海のような状態が平安です。

これとは逆に「恐れ」というのは秩序がなく、非正常的で、変化がたくさん起こる状態です。恐怖があると、私たちのたましいと心は高波のように荒れます。恐れというのは、想像以上に強い力があります。私たちにストレスを与え、私たちを倒れさせるのも、恐れである場合があります。死に対する恐れ、人と社会から除け者にされる恐れ、失敗に対する恐れ、拒否されることへの恐れなど、私たちは生まれた時からこのような恐れに束縛されているのかもしれません。

イエス様は私たちの恐れを平安に変えて下さる方です。私たちが罪を犯して震えている時にも、叱る代わりに平安を与えて下さる方です。だから、私たちもイエス様に出会うなら、その平安を受けることができます。イエス様に出会うなら、恐怖は消え、心は平安になります。

そのイエス様が、今日も私たちに語りかけておられます。「あなたがたに平安がありますように。」恐れを平安に変えてくださるイエス様との出会いがありますように祝福します。

 

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