慰めてくださるイエス様

苦難や逆境、挫折という単語はあまり嬉しいものではありません。苦しくて辛いことだからです。もちろん苦難や逆境を通して受ける有益なこともあります。苦難を克服する力、苦難に耐える力、また苦難の中で見つけた自分の弱さなどです。

このような有益、将来にある報いや良い結果のために、運動選手や勉強中の学生たちは自らを苦難に投げ入れることもあります。もっと速く走るために陸上選手は絶えず瞬発力や筋力を鍛錬し、自分の限界を超えるために肉体的苦難に耐えます。また、学生たちは良い成績を出すために、休みたいという基本的な欲望を我慢して勉強します。ただ、このような苦難は自発的なものであるため、まだ耐えやすいほうかもしれません。

でも、私たちが願ってもおらず、全く予想もしていなかった苦難は、耐えられないような重さで襲ってくる場合がほとんです。このような苦難は、打ち勝つどころかそれに耐えることさえつらい時もあります。また、苦難の期間が長くなれば、絶望の中に次第に埋もれてしまうようになります。この時、私たちは果敢に暗やみを振り切り、光に向かって進む必要があります。闇と孤独の部屋から離れて、世の中に出る必要があります。でも、これさえ思い通りにいかない時があります。この瞬間、私たちに必要なものがあります。

それは慰めです。苦難の中にいる人に必要なものは、叱責ではなく慰めです。暗やみから光に、孤独な部屋から世の中に進ませるのは 訓戒や叱責ではありません。あたたかい慰めの一言、そして愛のこもった食事が、私たちをもう一度立ち上がらせ、光の中に進ませるのです。

聖書の中のイエス様は、苦難の中にいる私たちに必要なのがこの慰めであることをよく知っておられました。イエス様は自分に従う12人の弟子たちに苦難がある度に彼らを慰めて下さいました。彼らが大波のせいで船の中で恐れていた時も、水の上を歩いてきて彼らを慰めてくださいました。イエス様の弟子の中で一番信任されていたペテロが、迫害の恐怖からイエス様を知らないと3回言ったことがあります。この時にも、ご自分を知らないと言ったペテロを責めませんでした。むしろ、魚を焼いてペテロに食べさせ、慰めてくださいました。

ある詩人は苦難についてこのように語りました。

「苦難は戦って勝つために与えられたのではありません。逆境は立ち上がるためにあるのではありません。挫折は飛び越えるために来るのではありまえん。苦難は澄んだ目を開かせるためにあるのです。苦難は苦難が与える苦痛に立ち向かったり、早く通過しようとせず、苦痛の中心に潜り込み、その中にある天の御顔を捜すように、私たちに与えられたのです。」

イエス様は苦難の中にいる私たちを慰めてくださる方です。もし今、苦難の中にいる方がいるなら、ぜひ慰め主であるイエス様に出会ってください。真の慰めを得てもう一度立ち上がり、光の中に、世の中に、人々の中に向かって進み出る恵みがありますよう祝福します。愛します。

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