励ましのために

コラムを書く前には神様に祈ります。神様の御心を教えてくださいと。愛する聖徒たちに伝える神様の御言葉と知恵を祈りで求めます。コラムを上手く進む日もありますが、全然進まない日もあります。進まない時はもう一度神様に祈りながら神様の導きを求めます。今、明日の週報に載せるコラムを書いていましたが、なかなか進みませんでした。代わりに、以前に書いたコラムがずっと思い浮かびました。その内容は昨日と今朝黙想したエレミヤ書の御言葉にも合うコラムでした。明日のコラムは2020年3月1日の伝道週報に載せたコラムにします。このコラムは皆様より私に神様が語られるコラムで、もう一度励まされるためのコラムです。ご理解いただければと思います。

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良い牧師ではなく正しい牧師に

私たちには他人から良い人だと思われたいという思いがあります。愛して善を行い、良い人だと認められることは決して悪いことではりません。相手の心を開いて神様の愛を伝えるためには必要なことです。でも、人から認められたいという思いが強く、神様に認められることより、人から認められることを優先すると問題が起こります。神様中心ではなく人中心に生きるようになるからです。神様の御言葉が基準ではなく、人々の評価が人生の基準になるからです。他人の評価を人生の基準する人生は、まるで大波に揺れる船のようです。人々の価値観や考えは、時代や思潮、地位や立場などによって変わるからです。

神様の御言葉を教える牧師にも、良い人だ、良い牧師だと認められたいという思いがあります。しかし、この思いが強すぎて、牧師が神様からではなく人から認められる牧会をするなら、また、牧師が世の人々を満足させて人気を得るために神様の御言葉ではなく世の価値観を説教するなら、人々はどうなるでしょうか。腐っていく患部を神様の御言葉で消毒するのではなく、人間的な慰め、甘い言葉でその患部をただ覆うだけなら、人々はどうなるでしょうか。患部を優しく覆ってくれた牧師は、しばらくは良い牧師だと認められるかもしれませんが、時間が経つと患部は治療すらできない状態になってしまいます。

神様は預言者エゼキエルにこう警告されました。「しかし、見張りが、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告されず、剣が来て彼らの中の一人を討ち取った場合、その者は自分の咎のゆえに討ち取られるが、私はその血の責任を見張りに問う」(エゼキエル書33:6)。使徒パウロはさらに直接的に告白します。「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」(コリント人への手紙第一9:16)。

エゼキエルに臨んだ神様の警告と使徒パウロの告白を通して分かることは何でしょうか。神様のしもべは福音、つまり神様の御言葉をそのまま宣べ伝える義務があるということです。神様のしもべには、特に御言葉を教える使命を受けた人には、人々に罪が罪であること、その罪から離れて神様に立ち返るように説得すること、そして罪を犯し続けるなら神様の怒りが臨むことを警告する義務があります。この義務を誠実に果たさないなら、神様の御言葉を伝えるその人にも神様の怒りと叱責が臨むのです。

だからこそ、神様の御言葉を伝える牧師はどうあるべきでしょうか。人々から憎まれても、冷たい牧師だと言われても、牧師は神様の御言葉をそのまま伝え、罪は罪だと教えなければなりません。患部が腐っているなら、早く神様の御言葉でその罪の患部をえぐり出せるように助けなければなりません。そして、牧師は最後に神様の御言葉によってえぐり取られてさらに赤くなったその患部を、イエス様の愛で慰めなければなりません。

人から良い牧師だと認められることより、正しい牧師だと認められたいです。優しい牧師という評価より、神様の御言葉に従って生き、神様の御言葉をありのままに伝える正しい牧師だと評価されたいです。人の人気より、神様に認められる牧師になりたいです。良い牧師になる前に正しい牧師になれるようにお祈りください。そうすれば、皆様も私も生きるでしょう。愛します。

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