洗車と敬虔

 洗車をするたびに思うことがあります。普段から洗車せずに、一気に車をきれいにしようとすると、力も時間も倍以上かかることです。洗車を先延ばしにした分だけ、車外のしつこい汚れはひどくなります。車の室内にもホコリとゴミだらけで、誰にも見せられないほど山になっています。山のような汚れとゴミを一回で隅々まで掃除しようとすれば、当然ながらエネルギーと時間がかかります。

 反対に、簡単にでも毎日車を洗っていると、車をきれいに維持するのはそんなに難しくありません。ワックスで車を磨いていたので、車両の表面についたホコリや汚れも、簡単にタオルで拭けます。汚れた部分もはっきりと目立つので、掃除も簡単に終わります。毎日5分でも車洗する習慣が身につくと、力もエネルギーも時間も節約しながら、常に車をきれいにすることができます。

 敬虔も同じです。短くても毎日神様に祈り、聖書を読み、神様の知恵と教えを受けると、私たちの中にある罪を見つけることも、その罪を取り除くことも楽にできます。ところが、祈りと御言葉の黙想を先延ばしにすればするほど、後になって祈りも聖書を読むことも非常に難しくなります。祈りもせず、聖書も読まないので、神様の知恵と教えと訓戒も受けられなくなります。神様の教えを受けないと、罪に対する分別力と警戒心も低下します。聖なる生活を失い、罪が与える一時的な快楽に落ちて、罪と親しく過ごすようになります。罪と親しくなると、神様からはだんだん離れるようになります。しかし、まだ神様を信じる信仰と良心が残っているので、罪から離れて心と体と生活をもう一度神様に戻そうとしますが、小さかった罪はいつの間にかひどい汚れになってくっついてしまい、罪を取り除くのも難しくなります。

 敬虔はすぐに熱くなってすぐに冷める鍋のようになってはいけません。毎日変わることなく、短くてもこつこつと、神様に自分の時間と心と体をささげるのが正しい敬虔です。敬虔はマラソンのようなものです。一定のペースで長く走り、ゴールに入る信仰の競走です。だから、敬虔は習慣になる必要があります。短くても毎日祈り、神様の御言葉を読む練習をしましょう。練習の結果、敬虔が身につくと、罪の闇と汚れを区別し、簡単に取り除けるようになります。また、敬虔の習慣が人生の喜びになり、神様の聖なる光に照らされ、その光を他の人々に伝えるきよい人となることができます。

 祈りと聖書の黙想を明日に先延ばしにしてはいないでしょうか。今日までは休んで、また明日から本格的にやろうと思ってはいないでしょうか。1か月間全く聖書を開かなかったのに、一気に聖書を読めば大丈夫だと思ってはいないでしょうか。だとすれば、今すぐ目を閉じて、神様に短く祈ってみてください。今すぐ聖書を開けて、一節だけでも御言葉を読んでください。そうすれば、明日も明後日も、祈りと聖書の黙想がしやすくなります。敬虔は洗車と同じです。短くても毎日すれば楽になります。愛します。

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