イエス様を最優先に

ベタニヤという地域は、聖書に何度か登場する歴史的に重要な場所です。イエス様がこのベタニヤで死んだラザロをよみがえらせる奇跡を行われました。また、エルサレムに入る前に、ベタニヤのある家に入られました。その家はツァラアトという病気のシモンという人の家でした。マルタとマリヤ、そしてラザロはイエス様がシモンの家に来られたということを聞いて駆けつけます。マルタとマリヤとラザロは、イエス様と弟子たちと抱き合い、喜んだはずです。その後、マルタはシモンの家族を手伝い、イエス様と弟子たちの食事の給仕をします。ラザロは、イエス様の御言葉を聞きながら食事をします。その時、食卓に近付いて来たマリヤが香油をイエス様の足に注ぎ、そして自分の髪の毛でイエス様の足を拭います。香油の香りが家中に広がります。

このマリヤの行動を見た弟子のイスカリオテのユダが、「なぜ高価な香油をイエス様の足を洗うのに使ったのか。それを売って貧しい人々に施さなかったのか」とマリヤを非難します。マリヤがイエス様の足に注いだ香油の値段を現在の円に置き換えると、約130万円になります。かなり高価なことが分かります。ユダはその130万円で貧しい人を助けるべきだったと、マリヤの行動を非難したのです。しかし聖書は、ユダが心から貧しい人を助けたいがためにそう言ったのではなく、香油を売ったお金を欲しかったからだと記しています。

ユダがマリヤの行動を非難すると、イエス様はユダに向かって言われます。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです」(ヨハネの福音書12:7,8)。

マリヤが香油をイエス様の足に注いだのは、単にイエス様の足を洗うだけの贅沢な行動ではなく、十字架に向かって進まれるイエス様に対する礼遇でした。イエス様が全人類に救いを与える十字架の死のために一歩一歩進まれることに対する感謝でした。 ユダの考えは、もしかしたら私と皆さんの考えかもしれません。私たちの理性では、貧しい人を助けることのほうが合理的で、イエス様がもっと喜ばれる行動だ考えるかもしれません。そんなユダに、そして私たちに、イエス様は何と言われますか。「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

この御言葉を通して私たちクリスチャンが、そして教会が、心に刻むべきことがあります。イエス様が教会に与えられた使命があります。教会は貧しい人を助ける活動をします。教会は聖徒たちを聖書で教育します。教会は信じていない人々に福音を伝えます。伝道です。教会は社会のあちこちで奉仕活動をします。教会は救済、教育、伝道、奉仕などの活動をイエス様の命令にしたがってバランス良く行う必要があります。しかし、教会が最優先にすべきことがあります。それはイエス様に感謝と愛をささげることです。教会が、聖徒たちが、イエス様に感謝と愛をささげる礼拝です。日曜日、主日の礼拝です。マリヤが愛をこめて自分が持っている最高の香油でイエス様を喜ばせたように、私たちも最高の愛をこめてイエス様を礼拝しましょう。愛します。